Yoshikawa Mae from India 吉川めいのほぼ月イチ インド発見記
[04月]宗教心とスピリチャリティ
インドと言えば、信仰深いカルチャーとして世界的にも有名ですね。
国旗のシンボルとなっている サフラン色はヒンドゥー教を表していて、緑はイスラム教
間にある白色はキリスト教などその他の宗教を表す他、ヒンドゥー教とイスラム教の両教の和解を表しているそうです。


私は2004年から多くの時間を南インドで過ごしてきましたが、向こうに滞在していると、このような宗教的な要素が日常の中でよく体感できます。
例えば、毎朝ヨガの練習のために、早朝のまだ暗い時間に目覚め準備をしていると、どこかのモスクの大きなスピーカーから、イスラム教の朝のお祈りが鳴り響いていたり。

練習から帰ってくる頃には、私が住んでいた家の一階の大家さん宅から、ヒンデゥーのプージャの儀式を行う、ベルの音やお香の香りが漂っていたりします。
日中、普通に道端を歩いたり、スクーターに乗っていても、お寺の前を通ったら止まり、手を胸にあて、静かなお祈りを心に刻む人の姿が印象的です。


「宗教」と言うと、ある教えを信じ、その教会の規則に従い、集会や儀式に参加するなど、信仰に伴う「行い」の部分に目が向きがちですが..。
不思議とインドにいると、暮らしの中において、「信仰」が「生き様」とつながり、本質的には「一体である」という、非常に実用的なスピリチャリティについて考えさせられるものです。

ヨガを勉強している中でも、古典にもあるように、そして恩師の口からも、「イーシュワラ」や「God」と言った、「神」の存在を意味する言葉に触れることが少なくありません。

日本や西洋では、一般的に「ヨガ」というと、エクササイズやアクティビティとして「行う」種のものとして捉えがちですが、本場では、こういった心の在り方と切っても切れないつながりが、常に重視されているように感じます。

逆に、文化的にあまり宗教性の強くない日本のような国においては、「ヨガは宗教とは違うのだよ」と、「神様を信じることと、ヨガを楽しむこと」をあえて絡めない方法で、シンプルに伝えることを、私は指導者として大切にしています。

しかしながら、練習を重ねれば重ねるほど、身も心も浄化され、そうして丁寧に自分の本質的な存在、生命の根源を見つめて行くことを重ねると… 人は、止むなくいつかは「神聖たるもの」の存在を感じることがあるのではないかと、私は自分の経験を通して、そのようなことも感じています。


パタビジョイス氏の恩師であり、現代ヨガの父と呼ばれるクリシュナマチャルヤ氏はかつて、「神の存在を信じない者にとってイーシュヴァラ(「神」の意)とはいったい何か?」という問いに対して「そのような人にとってイーシュヴァラは、愛に置き換えることができるだろう」と言っていたそうです。
この言葉で、私が感じるメッセージは、大切なことは、「人」が全能者であるのではなく、「何か自分よりも大きな流れ」がいつも働いている、という認識ではないかと思うのです。

例えば、妊娠した時に、日本語でも「生命を授かる」と言いますが、このことは新たな命が、人の力だけによって誕生してくるものではない、という認識が隠れているとも言えると思います。
また、人が亡くなる時も同じで、生命誕生の不思議と同様に、人はいつ、どのようにして亡くなるかという究極的な真実を、悟ってはいない中で、今ある命を与えられていることを、本当はどこか奥底で感じられているのだと思うのです。


日本人女性である私の心の中で、ヨガは、直接宗教的なものとしては捉えていないけれど、根本的にスピリチュアルなものでると日々感じていることは事実です。
それは、何かを信じるとか信じない、といった問題ではなく、私にとって、この命の流れにおいて、自分よりも遥かに大きい力が働いていることを、ただただ感じることだと思うのです。

そして、私が師から教わり続けている、最も大切なこと。
それは「そんな大きな存在を理解すること」以上に、私達人間が、そんな計り知れなく大きな大自然の働きに触れ、その神秘的な神性を感じはじめた時に、人が、人として安心して降参できる、恵みあふれる謙虚さを知る、ということではないかと思うのです。