Govinda Weekly Blog
愛と思いやりに満ちた人生とスピリチュアリティの実践
[2009/05/02]
前回紹介した、Patrul Rimpocheの『完璧な師の言葉 "Words Of My Perfect Teacher"』を引き続き読み進めています。繰り返しになりますが、これはチベット仏教の基本原理の根本教典のひとつとされています。



本の中で今回とりあげるセクションは 『ボディチッタを目覚めさせる』というタイトルの部分です。これはスピリチュアルの修練や人生における愛と思いやりの重要性についてのトピックです。

わたしたちの人生におけるすべての苦悩の源はマインドにあります。わたしたちの人生に対する基本的な姿勢や思いこみが、世界において何を経験し、いかに交流するかということを方向づけるのです。それはまた、わたしたちが他人をどのように捉えるか、自分自身をどのようにみるかについても型作っています。
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わたしたちが自分は他人と異なる、独立した存在だと思っているとき、意識せずに自ら世界と人生に対し敵意のある関係性をつくりだしていることになります。世界へのこのような関わり方では、常に他人と争いが絶えず、他人を常にジャッジするようになったり、またはいろいろな方法で自分を守ろうとしがちになってしまいます。

このような他人及び自分(もしくはそのどちらかのみ)に対し争うような姿勢が土台にあるとき、それがもとでわたしたちは自分に真に満足し、静けさを保つことが出来なくなってしまうのです。このような思い込みを抱えている限り、わたしたちはいつまでたっても深いレベルのスピリチュアリティの叡智を深めることは出来ないでしょう。

なので、他の様々な叡智の伝統と同じく、 チベット仏教徒にとっては、愛と思いやりに満ちたハートとマインドを培うことこそが全ての修練の中でも最も基礎的、かつ最重要なことのひとつとされているのです。

通常、完全に意識化されていないマインドは常に、他人よりもいくらか自分は特別で異なる存在だと決めつけたがります。わたしたちのほとんどはすぐ隣にいる人に比べて、いかに自分がよりユニークかつ個性的な存在であるか、より注目に値する人間であるかを常に証明しようとしてしまうのです。

または、他人に比べて自分があまり価値がない人間だとか、劣っていると感じている人も中にはいるでしょう。これは、表面的には他人より勝っていると感じている人とは違うようにみえますが、実際は、ほぼ同様の活動なのです。どちらのケースにおいても、自分が他人と異なることを証明しようとする傾向だからです。そしてそれが、より多くの部分で、わたしたちが実は他人と同じ要素の方がよほど大きく持っているということを理解出来なくさせているのです。

チベット仏教において『ボディチッタを目覚めさせる』ということは、いかにわたしたちがすべての事物や存在と繋がっているかという意識を覚醒させる修練のことをいいます。わたしたちが他の生物に対して、深い愛や思いやりの意識を発達させるとき、すべての生命の本質を大きく経験し始めることになるでしょう。生命と実在の本質においては、根本的に、わたしたち自身と生命をもつものや他人との間に何の境界もありません。わたしたちが見、経験していると感じているすべての相違は単にマインドが引き起こしているだけなのです。

ほんもののスピリチュアルの修練は、このような深く根ざしたマインドによる幻覚を取り除き、 現実や他人をわたしたちの想像を通してではなく、あるがままの真の姿で認識し、交流出来るようにしてくれるのです。

要するに、日々の暮らしにおいて行う愛と思いやりを覚醒させるための修練を、常に他人と自身を繋げる方向性に向け続けようとすることです。分離させるような方向性ではなく。

わたしたちすべてを繋ぐ、もっとも共通性の高い要素は、 どんな生物も苦しみではなく幸せを求めているということです。

わたしたちはまた、愛する人々を守り、慰めたいと思っています。どんな形であれ、近しい人々が傷つくとき、わたしたちは痛みを感じます。

愛と思いやりを覚醒させていく過程においては、他の人々と接触するたびにその都度、このような事実を心に深く留めておくことが大切です。

もちろん、現代においては、わたしたちが日々出会う人々のほとんどはあまり幸せではありません。ほぼすべての人は人生において多くの苦しみを抱えており、自分自身で作り出した苦悩に気づく方法も、そこから逃れる知恵も持っていないのです。人生において幸せになることは、多くの人にとって難しく複雑な問題となっているのです。実際、現代人のほとんどは、幸せになろうとして逆にもっと自分をみじめにしてしまいます。それだけでなく、まわりの多くの人をも不幸にしてしまっています。 .

他の人々に対する愛と思いやりを積極的に培っていかないならば、多くの時間を他人と喧嘩したり抵抗したりすることに費やしてしまうことになるでしょう。その結果、自分にとってもまわりの人々にとっても、スピリチュアリティの進化を助けないような雰囲気を作り出してしまうのです。

苦悩が生まれる基本的な原因について少しも理解していなければ、本当の幸せや真の精神性の発達は決して得られません。そして、わたしたちが他人を同じであるというよりも異なっているという考え方を常にしている限り、苦悩が実際にどのようにして生まれるのかということを理解することはないでしょう。

実在の、表面的でしかない部分と自分自身が同一だと思ってしまうとき、わたしたちは苦しむのです。

わたしたちは自分の肉体面に執着するとき、苦しみます。所有物に執着するとき、苦しみます。または主体的な個性、意見、好き嫌いなどに執着する時も。もしくは自分を他人と差別化できる要素にこだわるときや、他人との上下関係をつくりだしたり、分離においやる場合においても。

しかしながら、これは自分を大切にするのをやめるべきだとか、人生を積極的にうまくやりくりするべきではない、ということではありません。ただ、究極的に大切なことは、わたしたちの人生が、根本的に他人の人生に比べてより重要であるということは真実ではない、ということを理解することなのです。 言い換えれば、スピリチュアリティの修練や成長を大きく促進するのは、自分自身だけでなく他人にとっての幸福や喜びとなるものに対して注ぐ時間とエネルギーにあるといえるのです。

なので、他人に出会うときはいつでも、それがいかに小さかろうと大きかろうと、どんなに容易であろうと難しかろうと、自分が彼らに対してどの程度、愛や思いやりをもつことが出来るかどうか意識してみましょう。自己を彼らと同一視することが出来るか試してみましょう。どのようなものが彼らをその人生において苦しめているのか、想像してみることが出来るか、試してみましょう。 そして、どんなものであれ、彼らとの繋がりを感じる事が出来始めてきたら、彼らの苦しみを軽減し、彼らの究極の幸福に貢献するために、何か自分に出来ることはないか、考えてみましょう。

彼らに対して寛大になれればなれるほど、スピリチュアルな経験がよりパワフルなものになっていくでしょう。出来る限り、それを純粋で正直な姿勢で行えるように努力しましょう。どんなものであれ、表面的な偽の方法をとるのはやめましょう。与えることが強制的にまたは表面的に感じるときには、たぶん、その与えるという行為をしない方が得策だといえます。反対に、するときには、自分を思いっきり、自由に与えましょう。

多くの人にとって、この愛と思いやりを発達させる修練は非常に難しく、または、ほぼ不可能に思えるかもしれません。この修練をゆっくり、着実にすすめ、その能力を発達させるための時間を、自分が必要なだけたっぷりとるようにしましょう。やがて、その修練がだんだんと容易くなり、他人に対するほんもののパワフルな愛と思いやりを発達させる能力がとても大きなものになっていくのです。

何故、このとてもシンプルかつパワフルな修練がチベット仏教において、基本中の基本とされているのか、わかっていくことでしょう。最高レベルのスピリチュアリティ、その成長を促すことが、いかに全ての生きとしいけるものへの愛と思いやりに関わるハートのキャパシティに左右されているのか、気づいていくことでしょう。愛と思いやりを培うという点で、ほんのわずかな進歩を得るだけでも、パワフルな、スピリチュアリティへの理解及び知恵に気づく能力がとてつもなく拡大していくのを実感することでしょう。

皆さんがそれぞれ、自分自身のためにトライしてみることを心から願っています。



Hari OM!

Govinda
OM Namah Shivaya...!!!!

Govinda Kai
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